小西行長というコンテンツ1

2010年10月22日

 今週末はおそらくアップしないと思うので,ここでちょっと長めにまじめなことを。
 16世紀後半,太閤秀吉の時代に秀吉の家臣であった堺の商人小西行長が肥後南半分を統治することになり,その中心として宇土城が造られました。ご存知のように行長はフランシスコ・ザビエルらのイエズス会による洗礼を受けたクリスチャン大名でありますが,同時に海戦の才に長けた人物でもあったようです。行政手腕にもその能力をいかんなく発揮したようで,宇土城を中心に,宇土の街を今でいうところのウォーターフロントタウンとして開発していく構想があったそうです。しかし関ヶ原の戦いで石田三成についたことから結果的に敗戦。首枷をかけられ,42歳という若さで処刑されてしまいます。かく言う私もこの歳に近づきつつあります。閑話休題。
 この時代,肥後の北半分を治めていたのは,尾張の武将加藤清正。徳川時代を通じ,現在でも熊本では「清正公(セイショコ)さん」として親しまれているのは周知のとおりです。また,熊本城に現存する「宇土櫓」は行長を破った記しとして,宇土城の建物を移築した,という言い伝えもあります。
 さらに,徳川時代になり細川家が宇土を治めるようになると,細川氏は仏教を重視,市の中心部には浄土真宗のお寺が相次いで建立されます。この一環で始まったのが,現在の「うと地蔵まつり」です。加えてこの頃以降,地元の人たちは「行長が神社仏閣を焼き払った」ということを言い伝えるようになりました。
 このように常に歴史の中で冷遇されている行長ではありますが,おととしあたりからこの宇土では行長を再評価しよう,という動きが活発になってきております。昨年11月には大々的なシンポジウムが宇土市民会館で開催されまして,小西行長の功績をここで(多くの参加者と共に)認識することができました。ちなみにこの時の感想を熊日新聞に投稿し,見事に?採用されました。また閑話休題。
 


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Posted by ベンジー@宇土 at 18:02│コメント(0)宇土のこと
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