宇土市民会館 姜尚中「明日への言葉」講演録2
2012年05月26日
(講演の主題)
震災後の実感としてとらえた,「ひとつの時代の終わり」にあたって一番失ってしまったものが,「母なるもの」ではないか,と考える。
母が持っていた「母なるもの」とは,2つある。U+2460「御破算願いましては」とU+2461「なんとかなるばい」という2点。
U+2460「御破算願いましては」
私が「オモニ」という自伝小説を書いた理由は2つある。
ひとつは,日本で生まれ育ち韓国に帰国して成功した(と伝え聞いている)私のおじとその子どもの所在を知りたい,という一心で,メッセージを込めて出版したかった。おじの子どもは,生きていれば今年65才,自分と同世代になる。
もうひとつは「ある時代の熊本の光景を描き残したい」という願いがあった。以前テレビのロケで武田鉄矢氏と故郷の万日山(熊本市春日付近)をめぐったが,今ではコンクリートの下へと消えてしまった。それに,宇土から島原を眺める,遠浅の有明海の風景。母にとっては生まれ故郷の鎮海(釜山市付近,軍艦三笠が寄港していた)で見た「ふるさとの風景」と重ね合わせて見ていたのではないか。母にとっては「海の見える地域がふるさと」ではなかったか。そんな母も色んな事を言いたかったとは思うが,その言いたかったことを私のような子どもが何も感じないまま亡くなってしまった。
母の死に際して,人間が子どもを持つ理由として「自分の生きた証を残したい。」「自分の生きた時代は,2世代後には忘れ去られてしまう。」この2つがあるのではないか,と考えた。(その想いが自伝出版という形になったのだろう。)
母は日本語もあまりできなかったが,仕事でそろばんをやっていて,そのおかげで「御破算願いましては」という言葉をよく使った。この「御破算」という言葉,「元に戻る」という意味ではあるが,当時は皆が貧しく,「明日はどうなるか分からない」という境遇・気持ちだったであろうと思う。それでも皆元気で明るく過ごしていた。
戦後の高度成長を経て,多くの日本人はある程度のものを持てるようになった。しかしある程度のものを得てしまうと御破算にすることができなくなる。現在の格差のある社会で(今回の震災のように)御破算になると,持っていない人にとっては非常に辛い。
経済格差に伴い教育格差も大きくなってきた。以前は地方の小さな村からも東大へ入学してくる人がいた。大江健三郎さんが現役の東大生だった頃,故郷に帰省すると村長から「東大でどんなことが教えられるのか?」とよく聞かれたそうだ。しかし現在では東大に入学する学生の大半は大都市圏の,年収1000万以上の家庭の出身となってしまった。
U+2461「なんとかなるばい」
私の両親は第二次大戦中に韓国から神奈川(だったと思う)にある三菱の軍需工場に働きに出てきた。いわゆる強制連行ではない。その後空襲を逃れるため名古屋→熊本と,三菱の工場を渡り歩いてきた(当時健軍あたりに工場があった)。殆ど身一つで移住・生活してきたが,その苦労があって「なんとかなるばい」という言葉を発するようになったのではないだろうか。
震災後の実感としてとらえた,「ひとつの時代の終わり」にあたって一番失ってしまったものが,「母なるもの」ではないか,と考える。
母が持っていた「母なるもの」とは,2つある。U+2460「御破算願いましては」とU+2461「なんとかなるばい」という2点。
U+2460「御破算願いましては」
私が「オモニ」という自伝小説を書いた理由は2つある。
ひとつは,日本で生まれ育ち韓国に帰国して成功した(と伝え聞いている)私のおじとその子どもの所在を知りたい,という一心で,メッセージを込めて出版したかった。おじの子どもは,生きていれば今年65才,自分と同世代になる。
もうひとつは「ある時代の熊本の光景を描き残したい」という願いがあった。以前テレビのロケで武田鉄矢氏と故郷の万日山(熊本市春日付近)をめぐったが,今ではコンクリートの下へと消えてしまった。それに,宇土から島原を眺める,遠浅の有明海の風景。母にとっては生まれ故郷の鎮海(釜山市付近,軍艦三笠が寄港していた)で見た「ふるさとの風景」と重ね合わせて見ていたのではないか。母にとっては「海の見える地域がふるさと」ではなかったか。そんな母も色んな事を言いたかったとは思うが,その言いたかったことを私のような子どもが何も感じないまま亡くなってしまった。
母の死に際して,人間が子どもを持つ理由として「自分の生きた証を残したい。」「自分の生きた時代は,2世代後には忘れ去られてしまう。」この2つがあるのではないか,と考えた。(その想いが自伝出版という形になったのだろう。)
母は日本語もあまりできなかったが,仕事でそろばんをやっていて,そのおかげで「御破算願いましては」という言葉をよく使った。この「御破算」という言葉,「元に戻る」という意味ではあるが,当時は皆が貧しく,「明日はどうなるか分からない」という境遇・気持ちだったであろうと思う。それでも皆元気で明るく過ごしていた。
戦後の高度成長を経て,多くの日本人はある程度のものを持てるようになった。しかしある程度のものを得てしまうと御破算にすることができなくなる。現在の格差のある社会で(今回の震災のように)御破算になると,持っていない人にとっては非常に辛い。
経済格差に伴い教育格差も大きくなってきた。以前は地方の小さな村からも東大へ入学してくる人がいた。大江健三郎さんが現役の東大生だった頃,故郷に帰省すると村長から「東大でどんなことが教えられるのか?」とよく聞かれたそうだ。しかし現在では東大に入学する学生の大半は大都市圏の,年収1000万以上の家庭の出身となってしまった。
U+2461「なんとかなるばい」
私の両親は第二次大戦中に韓国から神奈川(だったと思う)にある三菱の軍需工場に働きに出てきた。いわゆる強制連行ではない。その後空襲を逃れるため名古屋→熊本と,三菱の工場を渡り歩いてきた(当時健軍あたりに工場があった)。殆ど身一つで移住・生活してきたが,その苦労があって「なんとかなるばい」という言葉を発するようになったのではないだろうか。
この記事へのコメント
Posted by お花農家 at 2012年05月30日 02:08
お花農家さん、初めまして。コメントありがとうございます。。。もしかして一度お会いしていらっしゃる方ではないかと?間違っていたらすみません。
姜尚中先生の講演は、広報うとの4月号の背表紙で知りました。瞬間で申し込みましたね。行けてよかったです。また、姜先生宇土にも来てくれないかなー?
姜尚中先生の講演は、広報うとの4月号の背表紙で知りました。瞬間で申し込みましたね。行けてよかったです。また、姜先生宇土にも来てくれないかなー?
Posted by ベンジー@宇土 at 2012年06月01日 19:05
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カンさんの低いトーンの語り凄くすきです。
知ってたらなあ〜!!
残念